
400年前の肖像画と対面するアンドロイドの伊東マンショ 万博イタリア館でコラボ – 産経ニュース

戦国時代に長崎からローマに派遣された伊東マンショの肖像画と、現代に甦(よみがえ)ったアンドロイドが対面-。大阪・関西万博のイタリアパビリ...
Buongiorno a tutti! Come state?
みなさんこんにちは!お元気ですか?
今日はイタリアに渡った日本人の歴史のお話を。
16世紀末、日本がまだ戦国時代の只中にあった頃、異国へと旅立った4人の少年たちがいました。
そのリーダーが伊東マンショ(伊東祐益、1570-1612)です!
1582年、キリシタン大名であった大友宗麟、大村純忠、有馬晴信の勧めにより、少年使節団がヨーロッパへ派遣されました。
彼らは「天正遣欧少年使節」と呼ばれ、伊東マンショ(当時13歳)、千々石ミゲル、中浦ジュリアン、原マルティノの4人が選ばれました。
▲長崎空港へ渡る箕島大橋のたもとの森林公園にある「天正遣欧少年使節顕彰之像」
彼らは長崎を出発し、インド、ポルトガルを経由してローマへ到着。
約8年にわたる旅の末、ヨーロッパ各地を巡り、イタリアでは1585年教皇グレゴリウス13世やシクストゥス5世に謁見しました。フィレンツェ、ヴェネツィア、マントヴァなどを訪れ、当時の文化人や王侯から熱烈な歓迎を受けました。
伊東マンショらは、西洋の音楽、学問、芸術を目にし、日本に持ち帰りました。
彼らの存在は、当時のヨーロッパ人にとって「遠い東洋にキリスト教を受け入れる国がある」という驚きを与え、日本にとっては「西洋文明との初めての本格的な出会い」の象徴となりました。
1590年に帰国した伊東マンショは、その後、イエズス会に入会し司祭となります。
しかし、日本国内ではキリスト教禁教令が強まり、信徒や宣教師に厳しい弾圧が加えられていきました。
伊東マンショ自身は1612年、病のために長崎で亡くなります。享年42歳でした。
伊東マンショの人生は、宗教的背景を越えて、日本とヨーロッパの最初期の文化交流の架け橋でありました。
彼が見聞きしたルネサンス期のイタリアの文化は、その後の日本人のヨーロッパ観に少なからぬ影響を与えました!
イタリア留学中には自国の偉人の話を話し合う会話の授業もあるかもしれません!
是非そんな時にご説明するのもよいのではないでしょうか!
それでは次のコラムまでアドマーニ!
つい昨日(!)展示が終わってしまいましたが、万博イタリアパビリオン内”イタリアウィーク”(9月7日〜14日)の中で「伊東マンショの肖像画」と「伊東マンショのアンドロイド」が展示されていたそうです。
歴史ある絵画と現代テクノロジーとの取り合わせ、なんともぐっときます…!
戦国時代に長崎からローマに派遣された伊東マンショの肖像画と、現代に甦(よみがえ)ったアンドロイドが対面-。大阪・関西万博のイタリアパビリ...